尼子城

別名-  付近住所 滋賀県犬上郡甲良町尼子 現在-
2009/7/20 案内板アリ


尼子氏  尼子の地名と尼子氏とその史跡
尼子の地名はその名も古く7世紀天武天王の時代高市皇子の生母「尼子姫」が当地に住まわれたことが地名の由来と推定されます。
奈良時代の古文書には甲良高良荘尼子層と記載されている。この地が古くから犬上川の扇状帯で肥沃な米作地であり有力な寺社領荘園であったと考えられます。
尼子氏は中世室町時代の初期京極家5代高氏道誉の孫高久が甲良荘尼子郷を領有、正平2年(1347)勝楽寺の前衛として築城高久は地名を姓として尼子左衛門尉高久と名乗り尼子氏の初祖となった。
史跡として現存する尼子城の城跡殿城池は正平2年(1347)初代高久により築城され3代氏宗 永禄元年(1428)の頃に落城したと考えられ今から560余年前で殿城池が城の堀跡であり落城のとき入水されたといわれる八千姫を祭神とする社があり1月15日に祭典が行われている。
 玄翁堂襄の尼子城の土塁と堀跡
昭和63年玄翁堂襄の竹薮で尼子城の土塁と堀跡が県教育委員会により発見され尼子城館跡と確認されました。
土塁に植付られていた竹薮が長年の風雪から破壊を免れたと考えられます。地名を姓とした中世の武将尼子氏の遺構を永久に保存するため史跡公園として村人をはじめ子供達の遊園地となる。

 尼子城の堀跡、殿城池(別名お園堀)
場所 滋賀県犬上郡甲良町尼子田居中1436番地
面積 79平方米(約24坪)
御祭神 八千姫 祭日 1月15日

尼子城は、京極家5代で室町幕府の重臣で「バサラ大名」として其の名を天下に轟かせた京極高氏(道誉)の嫡孫備前守高久が甲良荘尼子村を領有し尼子氏と称した。其の頃本家京極家の居城城楽寺の前衛城として築かれたのが尼子城です。
 嫡男出羽守詮久以後近江尼子氏の居城として南北朝の動乱期京極家の有力連技旗頭として重きをなしていたが、打ち続く戦乱で城は落ち一族家臣達は四散したと考えられるが、山陰山陽に覇を握る分系の雲州尼子氏を頼り彼の地で活躍した一族家臣も多く、近江尼子氏は史上から姿を消しています。
 殿城池は、ありし日の尼子城の堀跡です。昭和初期まで池の西、深さ4、5米で北側に湾曲した竹薮となった堀跡が続いていましたが戦後宅地に変貌しました。村の東、玄翁堂襄の竹薮から尼子城の土塁と堀跡が県教育委員会により発見され、室町時代では広大な平城であったことが判明しました。
 お堀の水神様は落城のとき入水された城主の姫君(八千姫)が祭られています。又このとき、若く美しい侍女お園も姫の後を追って入水殉死したことを領民が憐れみいつしかこの堀を「お園堀」と呼び敬い親しみ護り続けて今日に至っています。